こんにちは。
先日、新潟市南区で
「ジュネーブ式子育て国際人を育てる」というテーマで
お話をしてきました。
当日、急用で来られなかった方から
「数カ月前から楽しみにしていました。
行けなくて残念で...」と
私をネットで検索してくれてメッセージをもらいました。
とても嬉しいです。
ありがとうございます。
その方に向けて、ブログでお伝えできる限りの
ことを考えました。
「国際人」になる為の
最重要な感覚のお話をします。
それは「人と自分は違う」ということです。
これが「国際人の感覚」です。
娘はこの感覚があり、
息子はこの感覚が足りませんでした。
2人はどうしてこうなったのかと
考えると、
娘は日本の少数派
息子は日本の多数派だったからです。
娘の好きな物や持っている感覚は「個性的」で
多くの人がイメージするものとは違っていました。
だから少数派。
息子は逆、多くの人が予想するような感覚を
持っていました。
だから多数派。
少数派の娘は幼い頃から
「自分と人は違う」を学び続けました。
だから、日本とジュネーブが違うということを
すんなり受け入れられ、生活に馴染むのが早かったです。
多数派の息子は
「自分と人は同じ」を学んできました。
だから日本とジュネーブは同じと予想し、
なかなか生活に馴染めなかったです。
(2カ月ぐらいでドライブし始めました)
ここからは
息子が「国際人の感覚」を掴むまでの
ジュネーブでの3つの経験をお伝えします。
これによって価値観がこわされ、
新しい価値観がつくられていきました。
②それ変でしょの喪失
③わかりあえないの創造
①普通の崩壊
ジュネーブの教室は「国連」と呼ばれるほど、
同じ国籍の子がクラスにいません。
髪の色・目の色・肌の色・服装・食べ物・持ち物
全てが人それぞれ。
もうこの時点で自分の見た目や持ち物に「普通」は
存在してません。
お道具箱の中身さえ、全員バラバラ。
「はさみ」なら自分が持っている物で
「のり」も自分の物で構いません。
みなさんはソマリアの「はさみ」を想像できますか?
じゃあ、エジプトの「のり」は?
まぁ、そんなに違いはないんですが(笑)
全員おなじ物を持ち、
おなじケースに入れて、
おなじ位置で保管する、
なんてことはありません。
『自分の持っている物が
自分に一番あっていてベストだ』
こう結論づける必要がありますね。
この為に「普通」の崩壊が要ります。
「普通」を気にする息子は、
持ち物さえ大騒ぎでしたよ(笑)
ちなみに「定規」についてです。
息子 「ママ!みんなそんなの持ってきてないよ。
違うんだよ。スーパーできっと売ってるから買おうよ。」
私「でも、先生は『あなたがいつも使っている物がいいわ』って
話していたよ。」
息子 「でも、これを持っている子はいないよ。」
私「そりゃそうよ。日本の物だもの(笑)」
息子「何、笑ってるの!普通こんなの持ってこないよ。」
私「でも筆箱に入るでしょ。使い慣れてるでしょ。自分のだってすぐわかるよ。」
息子「みんなに笑われるよ。」
私「それはない。だって、みんなそれぞれ違うの持ってきてるでしょ。
日本の文房具は小さくて可愛くて便利だから珍しがられるけどさ、
笑われません。」
結果、息子の定規にクラスの子が「なにこれ!」と
羨ましがったそうです。
持ち物ひとつひとつ、このやりとりの繰り返しで大変でした。
細かいですが、この作業が、
やがて「人と自分は違う」を学びます。
人それぞれ持っている物は違う。
人それぞれ持っている髪・肌・目・体格が違う。
「普通」なんてものは、
そもそも存在しないとジュネーブで感じました。
②それ変でしょの喪失
自分の好きなこと、興味のある物も
ひとそれぞれです。
ピンクのTシャツにスパンコールがついて、
頭にはゴールドのカチューシャをつけてくる
子がクラスにいました。
息子「僕は女だと思ってたんだけど、プールの時、水着が男子だった。」
私「そうなんだ。」
息子「変だよね、あんな恰好してたら女子だよ。」
私「いいんじゃない?それが好きなんでしょ。」
息子「この間はタキシードみたいな服を着てたんだよ。」
私「いいじゃないの(笑)ファッショナブルね。」
息子「もう、あの子はなんなのかわからない。」
私「みんなわからないよ。」
息子「先生もさ、先生なのにさ、キラキラのキャミソールだけで
ほぼ裸だよ!」
私「いいじゃないの、そんなことで人は決まらないでしょ。」
変だよねと感じてしまうのは、
価値観がせまいから。
自分の考えを人に押し付けて決めつけているから。
これがどんなに恥ずかしいのか、
スイスで私も学習しました。
『人によるさ』とスイス人が手を広げて
肩をすくめて苦笑いをするたびに、
自分がなんと小さい人間かおもい知らせれました。。。
帰国後は
息子も私も「えー!変じゃない?」って
言ってくる人たちに
「いいんだよ!」と跳ねのける日々です。
③わかりあえないの創造
友だちそれぞれ、
ひとつひとつ質問していかないと、
その子が何を大切にしているのかわかりません。
そして聞いたところで、
それを理解するには環境が全然ちがうと学びます。
結局はわかりあえないです。
でも、寂しいことではないです。
わかりあえないと認めることが
相手を受け入れていることに繋がります。
息子 「シュジーはね、あの暴力ふるってる子とも仲良しなんだ。」
私「母国が同じなんだって。」
息子「全然、あの子たちとシュジーは違うのに、なんで一緒にいるのかな。」
私「何か共通点があるのかもね。」
息子「僕はシュジーとあんまりないよ。好きな食べ物も、好きなマンガも違うし。
言葉も全然通じない。
よくわかんないことも多い。」
私「でも、仲良しでしょ。いいんじゃない、人それぞれだからさ。」
息子「まぁね。」
友だちとは「同じ」である必要はなく、
理解できない部分もあって当然なんです。
友だちだから全て理解する、
家族だからわかってくれて当然など、
これも存在しません。
人と自分は違うからです。
まとめ
息子が「国際人の感覚」を掴んだのは
ジュネーブでの3つの経験です。
これによって価値観がこわされ、
新しい価値観がつくられていきました。
②それ変でしょの喪失
③わかりあえないの創造
「人と自分は違う」
この感覚が身に着くと生きやすくなりますよ。
自分を認め、他人を認めて、
ボーダレスに生きて行ってほしいと願います。
帰国後、日本の子供社会だとますますこれが難しいんだなと
感じています。
息子のように価値観の崩壊が必要。
だから帰国子女が生きにくいのかも。
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